平坦な世界と壊れた感情
感情が壊れ、世界は「無音の劇場」へと変化する。
色彩を失った風景、手応えのない日々、そして他者との会話もどこかよそよそしく、すれ違っていく。
この感覚は、まるで「平坦な世界」にいるような気になる。
喜怒哀楽という波がまるでなく、干からびた海のように、ただ平らに静かに広がっている。広がっているだけで、何も起こらない。
生きているはずのこの世界が、遠くのスクリーンに映し出された映画のように感じる。
それは、まるで「平坦な世界」。そんな感覚。
この感情に幾度となく飲み込まれ、過去の自分を恥じ、責め、何度も「あの時こうしていれば」と食いながらそれでも変えられない今に無力感を感じる。
それでも、そんな感情を抱えながらも、日々は続いていく。
何も変わらない日常の中で、ただ生きているだけの自分。
変わりたいという願いはあっても、行動は伴わず、理想と現実のギャップに押しつぶされそうになる。
その苦しみは、単なる精神的な疲れを超え、心の底が抜ける、「深淵に落ちる」ような感覚。
心理学の視点からすれば、こうした状態には過去のトラウマや未解決の課題、自己認知の歪みといった原因があるとされる。
けれど、実際にその渦中にいると、理屈では到底説明できない感覚に襲われる。
感情は、世界と自己との間の繋がりである。そしてその切断は、深い孤独を呼び起こす。
過去の自分を呪う行為は、自己否定の象徴であり、まるで自分自身に毒を注ぎ続けるようなものだ。
それは一時的に「自分を罰している」という納得を与えてくれるが、実際にはさらに傷口を広げてしまう。
そして、そのループから抜け出せない限り、未来は閉ざされたままだ。
もちろん、そんなことはとうに理解しているが。
進む社会と世界、止まっている自分
私たちが生きるこの時代は、何よりも「変化の速さ」を求められる時代だ。
SNSの投稿ひとつをとっても、常に新しさと魅力を発信することが求められ、他者の「進歩」と比較される。
職場でも、家庭でも、内面でも、「昨日より良くなっていること」が当たり前のように期待される。
その変化のスピードは、まるで流れる川のように速く、私たちを置き去りにしていく。
変化を求めていくのは決して悪いことではない。むしろ変化していかなければ成長はできないだろう。
しかし、変化を求めるあまり、他者と自分を比較してしまう。
他者の成長を見ては「自分は何をしているのか」と思い、他者の成功を見ては「自分は何もできていない」と感じる。
追いつけない自分に焦り、苛立つ気持ちが募る。その環状は自分を蝕む毒になる。
何度も「なぜ自分は変われないのか」と自問自答し、他者と比較しては自己嫌悪に陥る。
変化に追いつけないのは、社会のせいでも、他者のせいでもない(変化が速すぎるのは社会のせいだが)。
それは、私自身の問題だ。
自分のペースで生きることを選択したのに、他者のペースに合わせようとする。
小さな変化を求めるのではなく、劇的な変化を求めてしまう。
焦らず進む価値
焦らず進めというが、そんなのはどう考えても無理難題である。
前述の通り、他者と比較してしまうのが人間だ。
焦らず進むことは、他者と比較しないこと。どう考えても無理である。
それでも、焦らず進むことは大切だ。
焦りは視野を狭め、判断を誤らせる。
焦りは、他者との比較を生み出し、自己否定を引き起こす。
焦りは、未来を閉ざす、とまでは言わないが、少なくとも自分を追い詰める。
小さな変化を積み重ねて、最終的には大きな変化につなげる。
心から楽しむこと
友人が「人間らしく泣いたり笑ったりすることができているのが楽しい」と言っていた。
無感情は本当に人間らしさの終着点なんだろうか。
一歩踏み出せた瞬間、心から笑ったり泣いたりすることができるのが人間らしさなんじゃないか。
その取り戻したときが一番人間らしい瞬間なんじゃないか。
音楽の中にある喜びや悲しみ、映画の中の感情、友との会話の中にある笑い。
それは、平坦な世界からの脱出であり、感情を取り戻すための第一歩だ。
音楽家の坂本龍一は「音楽は心の呼吸だ」と語った、詩人の谷川俊太郎は「言葉は人をつなぐ橋だ」と語った。
その瞬間を大切にし、心から楽しむことができるようになれば、少しずつでも変わっていけるのかもしれない。
波は小さくても、確実に存在する。
それらは、私たちが生きている証であり、心の底から楽しむことができる瞬間だ。
P.S. 友人のあなたへ
私は、この時代にあなたと出会えてとても嬉しく思っている。
あなたのツイートを見てこの記事を思いついたんだ(言わなくてもわかりそうだが)。
どうか今の幸せを楽しんで、その世界を紡いで私に教えてほしい。
あなたの人生とその世界に興味があるんだ。どうかこれからもよろしくね。
それとブログの引用ありがとう。モチベーションになった。