はじめに
夏目漱石の「こゝろ」を読み直した。
この作品は、私が中学生の時に初めて読んだ小説である。
読んだことない人は、ぜひ一度読んでみてほしい。青空文庫などで無料で読むことができる。
青空文庫 - 「こゝろ」 夏目漱石
こゝろのあらすじ
割愛させていただく。
こゝろ - Wikipediaなどであらすじを読むことができるので、興味がある方はそちらを参照してほしい。というか、読んでほしい。
こゝろから思うこと
「生きる意味とは何か?」
この問いに対する答えを探す旅路で、私たちはしばしば厭世的な世界観に触れることになる。
厭世主義 ―― それは、人生の苦痛や不条理を直視し、そこにある虚無を受け入れる一つの視座。
そして、この思想の深淵を覗き込むとき、私たちは夏目漱石の名作『こころ』に描かれた人間の孤独や心の迷宮と出会います。
『こゝろ』に見る厭世の影
『こゝろ』は、明治の終焉とともに生きる人々を描いた作品。
人間の内面に潜む深い孤独と虚無感は、今日の社会においてさらに鮮明に映し出されている。
「私の胸は常に重い石を載せられたように苦しかった。私はその重荷を下ろすために、あなたの力を借りようとしているのです。」
この言葉は、主人公の先生が、自らの内面に抱える孤独と虚無感を語る場面である。
彼は、自らの内面に潜む孤独と虚無感を他者に打ち明けることで、その重荷を軽くしようとしている。
しかし、他者に対する依存心は、彼の内面にある孤独と虚無感を埋めることはできない。
現代社会においても、私たちは他者とのコミュニケーションを通じて、自らの内面に潜む孤独と虚無感を埋めようとする。
しかし、他者とのコミュニケーションが孤独と虚無感を埋めることはない。
むしろ、他者とのコミュニケーションを通じて、孤独と虚無感を感じることがある。少なくとも私は最近そう感じている。
『こゝろ』にある言葉
『こゝろ』には、孤独と虚無感を描いた名言が数多く存在する。
その中から、私が印象に残った言葉をいくつか紹介する。
私はその人を常に先生と呼んでいた。
『こころ』は、語り手の「私」と主人公「先生」との交流を描いた小説。
当時まだ若々しい学生だった「私」。鎌倉の海で「先生」と出会います。
「私」は出会ったばかりのその人を、いきなり「先生」と呼びます。
そうして「私」と「先生」との交流が始まるのです。
「先生」は、勉強や社会常識といったようなものは教えてくれません。
「先生」の口から語られるのは、「先生」自身の生々しい体験から得られた教訓。
それを「私」にだけ打ち明けて、「先生」は自殺してしまうのです。
先生とは、文字通り「先」に「生」まれた人のこと。
人生で大切なことは、信頼する人間から直接学びます。
「私」にとっての「先生」のように。
貴方は死という事実をまだ真面目に考えた事がありませんね
「私」が「先生」と一緒に雑司ヶ谷の墓地を歩いていたときのこと。
変わった名前の墓標や、さまざまな形の墓石が並んでいます。
それらを見ながら、おもしろそうに冷やかす「私」に対して、「先生」が言った台詞です。
「先生」は月に一度、必ず友人の墓へ行きます。
「先生」に言わせれば、死は「事実」なのです。
死というものを生活のなかに含み、自分もまた死ぬべきものとして考えています。
自分も、周りの人間も、いつか死ぬもの。
常にそういう眼で見ている「先生」は、人生を真面目に生きているのです。
人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、――これが先生であった。
「先生」は美しい奥さんと暮らしています。
見た目には仲の良い夫婦なのに、「先生」はどこか奥さんを遠ざけようとしている。
「私」はそんな「先生」に近づこうとしますが、距離を取られ、物足りなく感じます。
「先生」は、ほんとうは愛情の深い人です。
でも、自分から心を開くことができず、身動きが取れなくなっているのです。
お互いに傷つけたり、傷つけられたりするのが人間関係。
他人同士でいるうちは平気です。
でも、愛情が絡むと、平常心ではいられなくなる。
相手を抱き締めることのできない人もいます。
然し……然し君、恋は罪悪ですよ。
「私」と「先生」が2人で上野を歩いているときのことです。
花の季節で、美しい男女のカップルが寄り添っています。
その姿をながめながら、冷やかしの言葉を述べる「私」。
身近な異性のいない「私」の態度には、うらやむ気持ちがあったのでしょう。
それを察した「先生」は言います。
「恋は罪悪ですよ」と。
なぜ恋が「罪悪」なのか。
「先生」の口から出た言葉に、「私」は驚きます。
恋は自分の欲望を満たそうとするために起こる気持ちです。
欲に駆られると、ふだんの自分では思いもよらないような、残酷なこともできてしまう。
そんな恋には自己嫌悪が付きまといます。
何故だか今に解ります。今にじゃない、もう解っている筈です。あなたの心はとっくの昔から既に恋で動いているじゃありませんか
なぜ恋が「罪悪」なのかと尋ねる「私」に対して、「先生」はこう言うのです。
物足りない気持ちがあるから、他人に近づいていく。
「私」が「先生」に近づこうとするのも、恋なのだ。
異性に向かう前の段階として、まず同性に向かっていく。
――「先生」はそのように説明します。
恋とは、異性に向かう気持ちばかりではありません。
物足りなさ、心の虚しさを埋めるために、他者へ近づこうとする気持ち。
それも広い意味では恋であると。
私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用出来ないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです
「先生」は人間というものを信用していません。
なぜそのような心を持つようになったのか?
「私」が尋ねても、「先生」は多くを語ってくれません。
「先生」は過去に自分がやったことを、今でも恐れています。
真面目な「先生」は、自分自身のことを信用できないために、誰とも深く関われず、世間に背を向けているのです。
平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
世の中に悪人という人種が存在しているわけではない。 普通の善人が、「いざという」とき、悪人に変わってしまうのだ。 「先生」は確信のこもった口調で、「私」にそう言います。
自分中心の考えにとらわれたとき、他人を顧みず、残酷な行動をとってしまう。 人間に備わっている利己的な一面。 善人から悪人への心変わり。 人間のそういうところが、「先生」には恐ろしいのです。
私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか
人間を信用していない「先生」は、「私」に対しても疑いを向けています。
しかし、本当は人を信用したい。
頭では人を疑い、心では人を信じたい、という矛盾に揺らいでいる「先生」。
そんな「先生」の切実な思いが込められた名言です。
どんなに疑い深くなっても、やはり他人を信用せずにはいられない。
それが人間の弱みです。
他人を受け入れると同時に、自分も受け入れてほしい。
他を必要とするのが人間です。
精神的に向上心のないものは、馬鹿だ
学生時代の「先生」には、「K」という親友がいました。
「K」は優秀で、禁欲的で、向上心の塊のような人間。
恋愛にまったく関心がないどころか、軽蔑すらしている。
一方、当時の「先生」は下宿先のお嬢さんに恋をしていました。
性格がまったく異なる「先生」と「K」。
あるとき「先生」は、「K」から、
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
と言われてしまいます。 \
ところが、その「K」も、やがて下宿先のお嬢さんに恋をしてしまうのです。 \
「先生」は「K」に嫉妬し、お嬢さんを自分のものにしたいと考えます。
そしてある日、「先生」は「K」に向かって言うのです。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」 \
以前、「K」から言われたことを、やり返しました。
けれどもそれは、ただの仕返しではありません。
「K」に恋をあきらめさせ、自分がお嬢さんを独占するため。
そのために、「K」にとって最も痛いであろう台詞を突きつけたのです。 \
最終的に、「K」は自殺してしまいました。
自分中心の考えにとらわれると、他人を思いやることができなくなります。
そんな時、自分でも意外なくらい残酷なことをしてしまう場合があります。
たとえ相手が親友であっても。
私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。
「先生」は遺書のなかで、こう述懐しています。
「先生」は「K」に対する自分の罪と深く向き合います。
自分中心の考えにとらわれ、心変わりして、親友を自殺へ追い込んでしまった自分。
このような利己的な心の動きは、すべての人間に共通しているものです。
つまり、生まれた時から人間が背負っている罪だといえます。
悪いことをしたという自覚がなければ、罪を感じることはできませんよね。
だから最初は、罪とはいえないような小さな罪を重ねてしまうもの。
そして問題が大きくなってから、ようやく自分の罪に気づきます。
しかし、場合によってはもう取り返しがつきません。
「先生」はそんな取り返しのつかない罪に苦しみ続けました。
そして自分で自分を罰するだけでは済まず、生命を絶つところまで行き着いてしまうのです。
なぜ『こゝろ』を読み返したのか
『こゝろ』を読み返した理由は、知り合いが話の例に出していたから。
その話を聞いて、『こゝろ』を読み返すことにした。
読み返してみて、改めて『こゝろ』の深さに触れることができた。いやぁ、名作だ。
『こゝろ』を読んでの思い
私自身は、『こゝろ』を読んで、自分自身の内面に潜む孤独と虚無感を再確認した。
私は誰かに打ち明けることができない。まるで「先生」のように。
他者とのコミュニケーションを通じて、孤独と虚無感を埋めようとしても、それはできない。
きっとこの一つ前のブログ記事にも書いたが、私は孤独と虚無感を感じている。
もう少し、自分自身と向き合ってみようと思う。「先生」の道をなぞるように。
まとめ
誰もが抱える孤独と虚無感。その内側まで書かれた名作。
ぜひ一度読んでみてほしい。